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昌道(まさみち)の趣味は、大学の講義や面倒くさいレポートが終わった後に、珈琲を飲むことだった。その日も、駅の近
くで発見した喫茶店に寄って例のごとく珈琲を注文し、今日あったテストの答えあわせをしていた。
出された時にはほんのり香ばしさを伴う香りを立てていた珈琲も半分以上なくなり、そろそろぬるくなってきた頃、店のド
アについてあるベルが軽やかな音を立てて来客を告げた。
ドアに近いカウンター席に座っていた昌道は、ノートから顔を上げた。客の入りが多いその店では、人の出入りのたびに
ベルが鳴るので、初めこそいちいちドアの方を見ていた昌道も、すっかりベルの音を気にしないようになっていた。
それでも顔を上げたのは、今までカウンターの奥で新聞を読んでいた店の主人が、突然立ちあがってドアの方に進んで
いったからだ。
「困るよ、黒州(くろしま)さん。 君に出す珈琲はないんだ」
黒州?と、昌道はノートを置いて椅子から身を乗り出してドアの方を伺い見た。左右に大きい店主はドアをほとんど埋め
ていて、その向うにいる人物はまるで見ることができなかった。
「お願い、一杯だけ。 いいでしょ?」
可愛らしい利発そうな声が店の中に流れてきた。軽やかなクラシックで満ちていた店内が、その騒ぎを聞きつけて少しざ
わつきだす。
「笹倉に言われているんだ、君には珈琲を出すなって」
ごねている「黒州さん」をなだめる店主の声が聞こえてくる。昌道は冷めていた珈琲を飲み干すと、広げていたノートやプ
リントを鞄に直し始めた。軽い財布の中から珈琲一杯分の代金を握り締めて、ドアを塞ぐ店主の肩を叩いた。
「ん?」
「ご馳走様。 そこ、通っていいかい?」
振り向いてこちらをみた店主の手にお金を押し付けて、店を出た。温まった体が、12月の風に吹かれて急に萎んでいく
のがわかり、首に巻いたマフラーに口元を埋めて肩を竦ませた。
「ああ、まいど。 とにかく、もう帰ってくれ」
店主も寒さにやられたのか、目の前の少女を追い払うように手を振ると、体を縮こまらせて煙る店内に入りドアを閉め
てしまった。
ベルの音が完全に消えるまで待って、昌道は悔しそうな顔の少女に声をかけた。
「あのさ」
「何?」
睨まれてしまった。背の高いこちらを見上げる彼女の眼は、寒さの所為か少し潤んでいる。
「いや、珈琲を飲ませるだの飲ませないだの、何の話?」
「見知らぬ人には関係ないでしょ」
昌道はうーん、と唸って頬をかいた。
少女はそんな彼には構わずに地図を取り出すと、黒いペンで憎憎しげにバツを書いた。黒く真っ直ぐに伸びたその子の
髪が、風に吹かれて少し舞った。
「……全部珈琲屋か喫茶店?」
「………」
身長差を活かしてその地図を覗き込んだ昌道の言葉に、少女は初めて反応した。この街の地図であるそれは、駅を中
心に至るところに丸印がついていた。
「飲み歩いているから、わかる。 結構いい店ばかりに印し付けてんじゃん」
ちょっと貸して、と地図を受け取る。 たくさんある喫茶店や珈琲屋でも、特に有名で人気のあるところばかりに印が付
けてある。逆にあまり評判のよくないところにはバツがつけてあり、とにかく黒でごちゃごちゃした地図だった。
「ふーん…行った事あるトコばっかだな…おわっ!?」
地図を見ながら小さな声で呟いた瞬間、少女の手が昌道の腕を掴んだ。いきなりの行動に心臓が早鐘を打つ昌道を見
上げて、少女が口を開いた。
「行った事あるの?」
「え? ああ、まあ…少なくとも2,3度は」
「珈琲好き?」
「うん」
心臓はどきどきしながらも答えた昌道に、少女は一人頷くと大きな眼を輝かせて彼を見た。
「珈琲、いくらでも飲ませてあげる。だから、手伝って欲しいことがあるの」
「いや、いくらでもって……話が見えないんだけど」
「来たら教えてあげる。 もう、打つ手がなくて困ってたの」
「いや、だからね…って、どこに連れて行くんだよ」
「いいから」
「いや、よくないって」
少女に手を引かれ、昌道は駅とは反対方向に向かって引きずられていった。
今出てきた店の温かそうな光と、どんよりした雲に覆われた空がひどく対照的だった。
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