旅立ちの日に
―――明治三十七年十二月二十九日 槙村直昌下士官 二〇三高地ニテ殉死――――
なんの変わりもない白い封書と、髪と爪の入った木の箱が家に届いたのは、兄貴が出兵した翌年の、日露戦争の
最中のことであった。
「直昌さんっ」
そう呼び止められたのは、兄貴の葬式が終わってから。
後ろから聞こえたその声に、思わず、心臓が大きく波打つ。ざわ、と周りの大人がどよめいた気配があった。
振り向くと、そこには泣き腫らした眼をした、少女が立っていた。この場に相応しい黒い服の着物、式の途中では見
かけなかったことを考えると、今到着したのだろう。
「茅さん・・・?」
兄貴の許婚、俺の義姉になるはずだった人。
槙村の家は代々軍人の家系にある。アジアに勢力を伸ばしつつある欧米諸国に抵抗するために富国強兵を推し進
めた日本は、先の日清戦争で眠れる獅子の清国に勝利してから、さらに軍国主義に傾きつつあった。一方、茅さんの
御代家は、軍人にその地位を取って代わられつつある華族である。この両家の利害――金と権力が一致したため、そ
の家の子どもである兄貴と、茅さんは学生のうちに婚約したのだ。
しかし、家同士の取り決めとはいえ、本当に仲が良く周りも羨むほどのお似合いの二人だった。
「よかった・・・無事だったのね」
ほっとした笑みを見せる茅さんは、真っ直ぐ俺の方を見ていた。そして、そのまま俺の事を抱きしめてきた。
式が終わって大体の人は帰っていたため、この場にいるのは親族と親類になるはずだった御代家の人たちだけである。
こんな場所で不謹慎な、という無言の視線がいくつも注がれた。
「え・・・え?」
「本当によかった・・・」
いつもとは違う様子の茅さんのに、どうしていいものか戸惑う俺を見かねて茅の母親が彼女の肩を叩いた。俺に抱きつ
いたまま、茅さんは顔を上げた。
「直昌さんは殉死されたのですよ。 この人は、幸彦さんです」
「いいえ、違うわ! 直昌さんよ」
「茅!! しっかりなさい!」
「・・・・どうして、皆、直昌さんが亡くなったなんていうの・・・・? ここにいるじゃない、ねえ」
茅さんが手を伸ばして俺の頬にそっと触れる。その顔は、今にも泣きそうな子どものそれだった。
その間なんと言えば良いのか分からずに、俺は呆然としたままだった。
「お願い、もう、どこにも行かないで・・・」
母親も、弱ったように茅さんから手を離した。
(俺を、兄貴と思ってる・・・・・・・?)
眉を顰めた俺に、ふと出征前に嬉しそうに話してくれた兄貴の言葉が浮かんできた。
『帰ってきたら、茅と結婚する。 羨ましいだろ』
頭がよく、運動も出来、人柄も良かった兄貴。俺はどんなに頑張っても、彼を超えるどころか追いつく事さえ出来な
かった。そして人を惹きつける、あの満面の笑みで言う兄貴に腹が立って、お祝いもまともに言えないまま送り出して
しまった。帰ってきたら思い切り、祝福しようと思っていたのに―――――
俺は一瞬躊躇した後、抱きついてくる茅さんの、思ってたよりもずっと小さな体を抱きしめた。
「ああ。・・・もう、一人にしないから・・・・」
遺骨もない形だけの葬式が終わって、一年が過ぎた。
茅さんは俺を兄貴だと思いこんだままだ。体が弱い茅さんはもっぱら家の中で静養しているので、俺は何度か家に
出向き話し相手をしたり、連れ出していろんな所に遊びに行った。兄貴の自慢話を思い出しつつ、茅さんの話と合わ
せる。本当に嬉しそうに兄貴と行ったお芝居や、展覧会の話をする茅さんには胸が痛んだけれども、俺は平然を装った。
「・・・・・・・結婚? 俺が茅さんと?」
そんな折に聞かされた、兄貴の代わりに結婚しろという話。なんとなく予想していたことだったが、実際こうして言葉に
して聞くと、その重みが肩に食い込んできた。
一見厳粛そうな髭ヅラの顔を顰めて、親父は厳粛に頷いた。
「もうすぐ一年だ、いい頃合だろう」
日露戦争も終わって、国はさらに軍事に傾き始めていた。おそらく国を軍人が取り仕切るようになるのも、そう先のこと
ではない。そして軍人として成り上がろうとするには、どうしても後ろ盾は必要だ。
「これは両家にとって良い縁談だ。 ・・・・・それに、お前もその気がないのならいつまでも心を病んだ女のお守りをしてい
られては困る。兄の手前、同情しているのかもしれないが・・・」
その言葉を耳にして、かっと頭に血が上った。親父の声を遮るほどの大きな音を立てて畳に拳を叩きつけ、俺は正座し
ていた足を解いて立ち上がった。
「あなたはいつもそうだ。 家のため家のためと・・・そんなに家が大事なら、兄貴じゃなくて俺を出兵させればよかっただろ!」
「親に向かってなんて事を・・・こら、待ちなさい!!」
後ろから聞こえてきた怒鳴り声を無視して、俺は親父の部屋から飛び出して自分の部屋に戻った。
我ながら殺風景な部屋の障子を開けて、中に入って意識的に思い切り閉めた。そのままごろりと畳の上に寝転がって
天井を眺める。わめきたいような泣きたいような、ムカムカした感情が心の中で渦巻いて、しばらくそのまま起き上がる気
になれなかった。
優秀な兄貴と、俺はいつでも比べられてきた。兄貴は越えられない壁であり、俺は引き立て役どころか彼の影に追い
やられ、存在しないも同然だった。
決して勝てない相手と向かい合った時、人は憎しみよりも虚脱感を覚える。どうしようも出来ないなら、いっそ諦めた方
が傷つかずにすむから。
それに、兄貴は本当に”出来た”兄貴だった。
そして兄貴の婚約者の茅さん。彼女は兄貴以外で初めて俺を『槙村直昌の弟』ではなく『槙村幸彦』として扱ってくれ
た。それでどれだけ救われたか、親や他の人間には分からないだろう。
この一年、俺は兄貴の代わりに家を継ぐための努力を続けてきた。でも、やはり兄貴はすごいと再確認させられるばか
りである。
どのくらいそうしていたのか、ふと天井に向けていた頭を横に向けてみる。壁の梁にかけた振り子時計が揺れるのを
ぼんやり見ていた俺は、思い立ってむくりと体を起こす。
日記に挟んだ一枚の写真を取り出した。兄貴の部屋の写真立てから勝手に失敬した写真。デートの途中で撮ったのだ
ろう、そこには、兄貴と茅さんが二人並んで写っていた。
「勝手に死にやがって・・・・くそ兄貴、俺が茅さん貰ってもいいのか・・・・?」
兄貴の顔を指で弾く。写真の彼は文句の1つも言わずに、笑みを浮かべてこちらを見ていた。
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