:::無機質ビート:::



 モニターを睨む視界が白く霞んできた。

 愁平は重力通りに下りようとする瞼を必死に食い止めて、数回目をしばたたせて、なんとかび
っしりと並ぶアルファベットが読めるようにする。
(あと一行…これさえ、直せば…)
 キーボードを叩く手を止めて、一呼吸置いてからEnterボタンを押した。とたんに、モニター中央
に正常起動を示す表示が現れた。
「…終わっ……たぁ―――――…」
 長く息を吐いて、椅子の背もたれに体を預けた。立ち上がる気力もなく、しばらくそのままで仰
向けでいた。
「――――っこんなことしてる場合じゃない!」
 意識が落ちかけて、寸前で眠りの淵から這い出した愁平は、起き上がると腕時計を見た。今、
朝の6時12分。どうにか約束の時間に間に合いそうで、彼はほっと息をついた。
 データを保存して、書類や企画書で散らかった机の上に埋もれるパソコンの電源を切る。完全
にパソコンが落ちるまで、ひょいと身を乗り出して、愁平は部屋の様子を見回した。



 ここは、愁平が勤めるユキコーポレーション(株)のオフィスだ。
 ユキコーポレーションはコンピュータ・エンジニアリングでシステム開発を行う会社である。
 支社合わせると従業員は100人を越える会社で、主に委託や共同という形でコンピュータのシステムを製作していた。
 今、部屋の中にいるのは愁平を含めて4人ほど。その誰もが机に座ってモニターを睨みつけ、
指を神業の速さで動かして文字を打っている。徹夜明けのオフィスは、一種独特の鬼気が満ちて
いた。
 ともかくも、納期が迫った急ぎの仕事が終了した愁平は、早々に帰り支度をして机を立った。
「猪瀬(いのぜ)さぁん…帰っちゃうんですかあぁ…?」
 机の向かい側、4つほど離れたところにいる男が、キーボードに突っ伏して涙声を出した。
「悪いな、明石(あかいし)。 今日はこれから用があるんだ」
 作業の終わらないらしい後輩に爽やかに声を掛けると、愁平より2つ年下の彼は降参、と両手
を挙げた。
「助けてくださあああい……どこが原因でバグってるのか全く分かりません…」
 泪も鼻水も垂れ流しの彼を見ていた愁平は、深く溜め息をついて、胸ポケットから取り出した眼
鏡を掛けて後輩の机に近づいた。
「あ〜〜〜〜…」
 横からマウスを操り、パソコンの画面一杯に表示される英単語のプログラムを全部スクロール
するうちに、愁平は得心したような、溜め息のような声を出した。
 しばらくして一通り全部見終わると、椅子から明石を追い出してパソコンの前に陣取り一文消し
て単語を書き直す。
「同じ単語が20箇所くらい打ち間違えてる。どこかは自分で考えてくれ」
 平伏して感謝の言葉を述べる明石に背を向けて、腕時計に目をやった。今、6時30分。
 急いで帰ろうと、カバンを小脇に抱えたが睡眠不足で足元がおぼつかない。なにしろ、今日
の約束のためにここ3日会社に泊まりこんで徹夜の連続だったのだ。
 髭も伸びてるし体も臭うから約束の時間までにどうにかしなければならないが、何より家に帰っ
て2時間ほど仮眠を取りたかった。でなければ、きっと歩きながら寝てしまう。

 不意に足を掴まれたのはその時だ。
 さしたる速さでは歩いていなかったので、つんのめる程度で留まったが、いきなりの事に愁平
の心臓が跳ねあがった。
 はっとして足元を見ると、よれよれのゴミ袋のような同僚の満井(みつい)が床に転がってい
た。いつからそこにいたのだろう、シャツやネクタイや髪に埃がついていて、おどろおどろしい。
「リーダあぁぁあぁ。終わらんんん」
 明石とは違い、こちらは泣いていなかったが代わりに頬がそげて目だけが異様にギラギラ輝い
ていた。思わず顔を引きつらせた愁平は、掴まれた足を振り払った。
「知るか。 俺はもう帰る」
「そんな事言わずにいい…このままじゃ、絶対終わらねんすよ!!」
 寝転がったままダムダムと床を叩く満井を見て、愁平は彼の前にしゃがんだ。 結構無茶な注
文をしてくる会社も多く、作ったプログラムを渡す納期が近づくとこのように半狂乱になるものも少なくない。
 実のところ、この同僚に仕事を頼んだのは他ならぬ愁平自身だった。 元々はチームリーダー
である彼の仕事だったのだが、それよりも急な仕事が入り、部下の満井に全面的任せたのであ
る。
 しかも、お得意さんの注文プログラムである。納期までに出来なければ、これからの仕事に差
し支える。
 どうにか彼を仕事に戻そうと、愁平は子供に話しかけるように、優しく声をかけた。
「……どれくらい残ってるんだ?」
「あと、半分…」
 愁平のこめかみが、ぴくっと引きつった。
「納期は…確か……」
 知らず、声が低くなる。聞かれて、満井は満面の笑みを浮かべた。
「5日後です」
 錯乱のあまり頭の上にお花畑が咲いている満井の胸倉を、愁平は掴んだ。
「―――だから、きっちり計画立てろって言っただろうがあぁあぁ!!!!!」
「絶っっ対無理です!! 終わらないに決まってる!!」
「確か仕事渡した時点でまだ1ヶ月余裕あったよな? てめえ、今まで何してやがった!?」
「ま、…前の仕事のミスが見つかって、そっち手直ししてました……」
 目を逸らして言う満井の胸倉を掴んで思いっきり揺さぶる。
「そういうことは、もっと、早く、言え!!」
 納品までのスケジュールを頭の中で立てて、愁平は眩暈がした。とんでもない強行軍になるこ
とは間違いがない。
 もういっそのこと、会社も仕事も全て捨てて帰ろうかという考えが過ぎる。
 だが、きっちり1秒後に立ち直った愁平は、満井の胸倉を掴んだままずるずると彼を引きずっ
て、机に座らせた。
「俺も…手伝うから、とにかく手を動かせ…っ!!」
「リーダー…ちょっ、俺、吐きそう……」
 彼も徹夜明けなので、先ほどの揺さぶる攻撃が結構効いてしまったらしい。
 だが、そんな苦情は一切聞く耳持たずに、愁平は机の上の書類をひったくって、現在の進行状
況を確認した。注文書を見直す彼を見上げて、満井は精根尽き果てた顔で呟いた。
「きっと終わりませんよ…もう、いいじゃないですか、納期延ばしてもらっても」
「馬鹿か。
 お前いい加減学生気分は捨てろ。 一度引き受けた納期延ばすのはな、『自分が出来る以上
の仕事を引き受けました。格好つけました。身の程知らずですみません』って言ってるようなもん
だろうが。
 それはな、他人も巻き込んで自分が使えるあらゆる手段を用いて、最終的に使う言葉だと思
え。『終わりません』じゃなくて、『終わらせる』んだよ。仕事一つでも逃したら、信用回復は並み
じゃねえぞ」
「は、はい…」
 気迫に押されて、満井は半分落ちかけていた瞼をしっかりと開き、頷いた。
「―――ていうか。俺が、先方に怒られんだろ」
 ぽん、と満井の肩を叩いて、愁平はにっこり笑った。
 この時の愁平は、まるで獲物を前にじゃれる肉食動物のようだったと、後にオフィスにいた全員が語った。




「で、手伝ってるわけね」
 朝9時。家に帰ってぐっすりと睡眠をとってきた社員が続々出社してくる時間である。
 爽やかに同僚が挨拶を交わす中、黙々とパソコンに向かっていた愁平のところに、川松(かわ
まつ)がやってきた。 髪の毛一本も取りこぼさずきっちりと髪を結った、眼鏡をかけた女性であ
る。チームでは唯一の女性だ。
 一部始終を明石に聞いた彼女の言葉に、愁平は手を休めることなくああ、と小さく呟いた。
「リーダーは大変ね」
「よかったらいつでも替わってやるよ」
 率直な感想に、希望も絶望もこめずに率直な答えを返す。そんな愁平を見下ろして、川松は眼
鏡の奥の目をきらりと光らせた。
「……もしかしてぇ、用事って千歳ちゃん関係?」
 愁平はその言葉が聞こえないふりをして、キーボードを叩き続ける。
「無視しないでよ。 叔・父・さん」
 嬉しそうに彼の肩に手を置くと、そこでようやく愁平がキーボードから手を離して、川松をにらみ
付けた。元々釣り目の無愛想な顔なので、睨まれるとさらに凄みが増す。
 だが、そんな様子にも動じずに川松はにっこり笑った。
「あら図星。 そりゃあ、待ち合わせに遅れるわけにはいかないわよね」
「川松さん、千歳ちゃんて誰っすか?」
 うんうんと頷いた川松に、修正が一段落したらしい明石が声をかけてきた。最近転勤してきた
ばかりの彼の方を見て、愁平の頭をわしゃわしゃと掻いた。
「こいつの姪っ子。 こ〜んな目つきの悪い男の家系とは思えないくらい可愛いコなのよ、ちなみ
に現在高校1年生」
「へええ、高校生! いいなあ、今度紹介……げふうっ」
 なぜだか夢見がちな顔になり、にこやかにのたまった明石に、愁平はコーヒーを入れていたカ
ップを無言で投げつけた。高速で飛んできたコップが見事に額に当たり、明石は椅子ごとひっくり
返る。
 彼の机の近くに座っている者は、コップの姿を見て咄嗟に自分のパソコンを抱きしめた。
「殺すぞ」
 それでなくとも徹夜明けと、仕事の手伝いで機嫌が悪い愁平は、必要最小限の言葉を投げか
けて作業に戻った。
 にぎやかなオフィスは一瞬にして沈黙に包まれた。
 カップには何も入っていないと確認して、パソコンを離した数人の溜め息がやけに大きく響く。
「で、どうするのよ? 断りの電話入れるの?」
 唯一、何の躊躇もなく話しかける川松の言葉に、愁平は伸びをして凝った肩を揉み解した。
「どうせこの資料が家においてあるから。ちょっと抜けて取ってくるついでに、会う」
「な〜んだ、つまらない」
 鼻で笑った川松女史は、そのまますたすたと自分のデスクへ戻ってしまった。
 何がつまらないのだろうか、こんなに人が必死だというのに。 だが、彼女の暇つぶしに付き合
っている場合ではない。
 愁平はまたパソコンに向かって、キーボードに指を滑らせた。



 目を覚ました愁平は、初めに自分がどこにいるのかわからなかった。
 もう一度睡眠を欲しがっている体に鞭打って、仰向けに横たわったまま腕時計を翳して―――
ギョッと目を剥いた。時計の短針はすでに3時を回っている。
「しまっ……」
 顔を青ざめて飛び起きる。冷や汗が噴出して、一瞬で眠気など消え失せた。
 区切りが付いたところで一度引き揚げてアパートに帰ってきたものの、どうやらそのままソファ
に倒れこんで眠ってしまったらしい。
 立ち上がろうとして、ふと掛けてあった布団に気が付いた。春近いとは言え、まだ薄ら寒い室温
にはありがたいが、こんな気の利いたものを用意して眠るほどの意識はなかったはずだ。
 誰が、などという疑問は顔を上げたら解決した。
「叔父さんのバカぁぁぁ!! 私、待ち合わせ場所で1時間も待ったんだからね!!!」
 薄緑色の生地に濃い緑の糸で可愛い刺繍の施されたワンピースを着た姪っ子が、仁王立ちで
立っていた。肩をいからせてぷるぷる震える彼女の手には、なぜだかサインペンが握られてい
た。
「いくら携帯かけても出ないし、1時間も同じとこ立ってたらナンパされるし・・・暇だから30分ほど話し込んじゃったじゃない!」
「な、ナンパ? そんな変な連中と関わるんじゃないぞ」
「叔父さんが時間通りに来てたら、関わらなかったよ!!!」
 ごもっとも。
「何かあったのかと思って来てみたら、眠り込んでるし…今日は絶対、付き合ってって言ったでし
ょ!!」
「わ、悪かったって。今からでも…」
「もう買ってきました。1人で」
 1人、を強調しながら、千歳が視線を部屋の隅に鞄と一緒に置いてある袋に移した。
 娘を一人置いて旅行に行っている両親への、結婚記念日のプレゼント。愁平の兄で彼女の父
親である、娘溺愛の彼とちょっとぬけたところのある可愛い母親へ贈りもの、どんなものがいい
かと相談されて、一緒に選びに行く筈だったもの。
 どう取り繕っても遅い事を思い知らされて、愁平は手で顔を覆って呻いた。
「二度と叔父さんには頼らないって心に決めたから! じゃ、私帰る」
 踵を返して台所の流し台にガチャンゴトンと大きな音をさせて料理器具を放り込むと、彼女は
上着を羽織って鞄を引っつかんだ。
 そのまま肩まで伸ばした髪を翻して足早に部屋を出て、まだソファの上にいる愁平にべーっと
舌を出してから、大きな音を立ててドアを閉めた。
 マンション中に響き渡る大きな音に、思わず肩を竦める。
 嵐のように吹くだけ吹いていなくなった姪に、溜め息をついて愁平は立ち上がった。台所まで行
って、弱火にかけられてコトコトと煮込まれている鍋を発見した。
 蓋を開けると、シチューのいい香りが立ち上ってきた。どうやら、愁平が寝ている間に千歳が作
っていってくれたらしい。
 そこで、お腹が鳴った。いつから食べてないかと考えて、不健康さを自覚するだけだと気づき、
やめた。
 1人暮らしで残業三昧。料理道具が埃を被る一方で、手料理など久しぶりなのでちょっと涙が
出そうだった。
(…お詫びを兼ねて、今度何かお礼しないとな……)
 姪っ子からのお恵みを、愁平は有り難く受け取る事にした。

 これを食べたらまた会社に行かなくてはならない。
 けれど、彼女のご機嫌をどうやって取ろうか、食べてる間くらいは仕事を忘れて考えた方がよさ
そうだ。
 





END.

 




サイト2周年(1ヶ月遅れ)の記念小説です。
とりあえず、世の中の闘うサラリーマンに愛をこめて。
少しでも楽しんでいただけたら幸いv













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