胸に残る君の歌声
1.
素直で優しくて、聞き分けがよく我慢強い子、というのが伊志克信という少年に対する看護師たちの印象だった。
そして、生まれたときから心臓に欠陥があり、最近ではさらに病状が悪化していて常に注意が必要な患者でもある。だが、
いつも礼儀正しく、ニコニコと笑みを絶やさない彼は、13という年頃にしては痩せた体をしているだけでどこにでもいるごく普
通の少年だった。
病院生活というものは、退屈である。
とりあえずご飯を食べるのと寝る以外することがない。入院患者はテレビを見てぼんやり過ごす人が多いけど、克信はテレ
ビが嫌いだった。キャスターが喚きたてるニュースは、ここが世間とかけ離れてることを否応なしに感じさせるし、バラエティー
など出演者が笑うあの声を聞くだけで頭が痛くなる。
「あら、もうこの本読んだの?」
たまたま図書室にいた婦長の萩野さんが、克信がカウンターに返した本を見て意外そうな声を上げた。車椅子に座ったまま
彼女を見上げる。
「うん。 最後で意地悪な夫婦をコテンパンにするところなんて、笑いが止まらなかったよ」
県内でも有数の大きさを誇る滝内総合病院では、入院患者用に小さな図書室を備えていた。本は退院して行った人の寄贈
品や、亡くなった人の遺品であったり、医者の家の本棚に入りきらずに流れてきたた本だったり。新規で買うということは滅多
にない。
送った人の趣味が色濃く出、バラエティーに富んだ本が狭い部屋の本棚にずらりと並べられているのだ。
この図書室の中でも、小説のコーナー棚の前が克信の一番お気に入りの場所だ。
かび臭い本の匂いは大好きだし、古くてぼろぼろの表紙を手に取り、どんな話なんだろうと考えると胸がドキドキする。本の中
では自分はどんなことも出来る。世界を飛び回る怪盗でも、お姫様を守る騎士でも、色んな知恵をもつ賢者にでも。
「二日前に借りたばかりでしょ。読むの早いわねえ」
「そっかなあ? 普通だよ」
患者が借りることの出来る本は一冊だけだ。楽しそうに棚の前で次の本を探していた克信の隣に来て、萩野さんは、あ。と呟
いて慌てて一番上の段にあった本を取り出た。不思議そうな顔で彼女を見ている克信の前で、荻野さんは表紙を見て一瞬眼を
細め、克信の前にさし出した。
「これ、読んでみたら?」
「『青色の彼方で』? 萩野さん読んだことあるの?」
差し出された本を受け取って、克信は不思議そうにタイトルを読み上げた。カバーの付いていない少しくすんだ灰色の背表紙の
本だった。金文字で題名と、作者の名前がぽつりと書いてある。
「かなり昔だけどね。 面白いわよお。6つの短編なんだけど、どの話にも同じ蒼い水晶が出てくるの。その水晶を持つことになっ
たのが主人公でね、時代も人種も年齢も違う人たちが水晶と一緒に冒険するの」
克信は裏表紙を捲って、出版された年を調べた。1‐‐‐年の初版本。下3桁のところまで、文字が滲んでいてよめなかった。
「じゃあ、萩野さんオススメだし次はこれ読んでみるよ。 ありがとう」
克信はにっと笑顔を向けて膝に本を置くと、ゆっくり車椅子の車輪を回してカウンターに行き、本の一番後ろにある貸し出しカー
ドに自分の名前を書いて、司書の当番である看護婦に渡した。
4人ほど先客の名前が書かれたカードが貸し出し本、と書かれた箱に収められるのを確認して、克信は病室に向かった。
「・・・・・っ」
だが、数メートル進んだところで、ビキ、と胸に走った激痛と波のように襲ってくる息苦しさに背中を丸めて呻いた。
その様子にすばやく気づいた萩野さんは、慌てて彼に駆け寄ってきた。
「発作ね? 薬は・・・持ってないわね。 早く病室に戻りましょう」
げほげほと小さく咳き込む克信の背を擦りながら、萩野さんは素早く車椅子を押して図書室を出た。
「・・・・いいよ。 萩野さんまだ本っ・・借りてないし・・・」
「私の用はどうでもいいの。どうせ、骨折で動けない患者さんから頼まれただけだから」
婦長なのに、こういう雑用もハキハキ受け入れてくれるから、萩野さんは患者や他の看護士に慕われている。手馴れた様子
で車椅子を押し、エレベーターを使って病室まで来ると、いつも薬を入れている棚から薬を出すと水差しと一緒に差し出す。
一口飲んでからからに渇いた口を湿らせて、苦くて飲み込むのに苦労する大きな薬を飲む。
ヒュウヒュウと空気の抜ける音しかでなかった呼吸が、ゆっくりと落ち着いて、最後に克信ははーーーっと大きく息を吐いた。
「落ち着いたみたいね」
「・・・・ごめんなさい」
申し訳なさそうに俯く克信の髪をかき混ぜて、萩野さんは彼をベッドに乗せるのを手伝った。布団をしっかり肩までかけて、細
身の婦長は手を腰に当てて怖い顔で克信を見下ろした。
「謝ることじゃないでしょう。 克信くんはなにも悪くないんだから」
克信は俯いたまま答えなかった。その代わりぎゅ、と胸の辺りのシャツを握り締めた。
「今日はもう出歩いちゃだめよ。 もうすぐ親御さんが来る時間だから、それまで寝てなさい」
シャッとカーテンを閉めて午後の日差しを遮ると、婦長は車椅子からベッドに移したときに床に落ちた本を拾って、テーブルの
上に置いた。
「感想聞かせてね」
スライド式のドアがスーッとなめらかな音をたてて閉まる。電気を消した部屋の中は真っ暗で、微かにカーテンの布越しに光
と、子どもの楽しそうな声が一人きりの病室の中に入ってきた。
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