風が吹きすさぶ寂れたビルの屋上。

 宝石のように灯る光の夜景を見るにしては低すぎるし、一人考え事をするにはいささか寒すぎる季節である。

 屋上に備え付けられた手すりに手をかけて、風に重たい黒髪をなびかせているのは一人の少女だった。

 下から吹きつけてくる風は11月らしく、枯葉が混ざったような物悲しい香りがした。

 下ではコートを着た人たちが忙しなく歩き、車道ではライトをつけた車が一定の速度で過ぎていく。

 どこかくたびれた感じの制服を着た少女はぼんやりとそんな人の流れを見つめていた。

「もう、嫌だ・・・・」

 手すりをきつく握り締める。もう何時間ここに居るのだろうか、手足の感覚もそろそろ失せてきた。

 少女の足元には学校指定の革の鞄が投げ捨てられている。通常に使っていたのではありえないほど、その鞄は

ぼろぼろだった。

 手で持つところはまるでハサミで切ったように切れていた。チャックが壊れているのか、教科書やノートが鞄

からはみ出している。

 踏み潰され泥で汚れた鞄も、びりびりに破られ中傷落書きだらけのノートも少女にとってはもうどうでもいい

ものだった。この無人ビルの屋上に来たときに怒りに任せて叩きつけたきり、一度も視界に映さない。

 彼女の見ているものは気味悪いくらい美しく輝くネオンと、この屋上から見下ろす下のコンクリートだけだった。

 少女は手すりに身を乗り出して、足を宙に浮かせた。まるで鉄棒で前回りをする格好だ。

 地上は遥か下。ここで手を離せば、おそらく簡単に死ねるだろう。そう思って、少女は眼を閉じた。

 その時。

「やめなよ」

 思いがけず近くから人の声がして、少女は思わずバランスを崩した。

「わっ」

 落ちる―――と思ったが、落下感はない。見れば小学生くらいの男の子がニコニコ笑って少女の制服を掴んでいる。

掴んでいる手に力がこもっている感じはしないのに、不思議と少女の体は支えられていた。

「よかったね、落ちなくて」

 笑っているのに、声は笑っていなかった。あっけにとられる少女の手を引いて男の子はその体を屋上に戻した。

「なんで・・・・いつの間に?」

「散歩してたらさ、お姉さんが落ちそうになってるのが見えて。それで走って駆けつけたんだ」

 男の子の指差す先では確かに、この屋上に通じる唯一のドアが開いていた。冷たい風に煽られて、錆びかけの扉は

キイ、キイと泣いていた。

(でも、何の音もしなかったけど・・・・。あの扉、開けたらすごい音がするはずなのに・・・)

 目の前でニコニコ笑う男の子に少女は特に追及しなかった。他のルートがない以上、この子のいうことは信じるしかない。

「ここ廃ビルだからいろんな人が入り込むけど、自殺しようって人が来たのは初めてだなあ。間に合ってよかった」

 したことが正しいと思って自分に笑いかけるその笑顔に、少女は胸の中に押し込めていた怒りが爆発するのを感じた。

「なんで、放っといてくれなかったの!?あのまま落ちたら、全てが楽になったのに!私もう、生きていく気なんて

ないのに!!」

 男の子は黙って聞いている。薄い茶色の髪が風の中で遊ぶ。その顔はもう笑っていなかった。

 冷めた、氷のように冷たい目で少女のことをじっと見る。その眼には、少女の後ろでたゆる黒い影がはっきりと見えて

いた。

 一呼吸置いて、男の子は口を開いた。

「・・・生きていく気がない?なんで?」

「しんどいのよ、あいつらが毎日毎日私に嫌がらせをするの!もう半年以上にもなるわ、学校に言っても取り合って

もらえない、親も私の言うことなんて聞いてないわ。いじめられるのは自分が悪い、意思が弱い、子供の戯言に付き

合ってられない・・・・誰も、私なんてどうだっていいの。だから・・・!!」

「死ぬの?」

 短く鋭く吐き出された言葉に少女は詰まった。

「・・・そうよ。私が死ねばみんな後悔する。みんな、自分が何をしたか思い知ればいいんだわ」

 ずっと考えてきた事だった。いじめてる連中に復讐する。どうすれば一番苦しめられるか、考えた末の結論だった。

「君はそれで満足かもしれないけど、残された人はどうするの?君は、その人たちに一生消えない傷をつけるつもり?」

「何がいけないの!?そんな事は知ったことじゃないわ。みんなそれだけの事をしてる。一生後悔して、『自分はなんて

馬鹿なことをしたんだろう』って思ってもらうの!じゃなきゃ、私・・・・・・」

「お姉さん、僕はお姉さんを責めてるわけじゃないよ」

 男の子が床に散乱しているノートを取り上げた。ボロボロに破られ、中にはひどい中傷が書かれていた。それに目を

落としながら、男の子は言葉を続ける。

「お姉さんの気持ちもよく分かるよ。でも、もう一度よく考えて。それで、あなたは本当に満足するの?お葬式で泣いて

もらって、苦しめてそれで満足?お姉さんの存在意義はそれだけなの?――――質問を変えようか。お姉さんは、

本当に死にたいと思ってる?」

 心の中を言い当てられた気がして、少女は息を飲んだ。そういわれて、先ほどバランスを崩したときの恐怖が蘇ってきた。

 ・・・・・怖い。死にたくない。ここは、寒い。

「今までいろんな人を見てきたけど、お姉さんは『軽い』方だね。まだ、今なら間に合うよ」

 ため息をついて、男の子はノートを屋上に据えられたゴミ箱に放り込んだ。羽織っている薄手のパーカーがふわりと

浮かび、風が抜けて落ちる。

「かるい・・・・?人の悩みに軽いも重いもないわ。確かに、私の悩みは小さいかもしれない。世の中にはもっとしんどい

思いをしてる人も居る。他人との板ばさみになって死を選ぶ人もいるわ。でも、そんなの関係ない。『私』はもう限界なの!」

 早口でまくし立てた少女を見て、男の子は視線を少女のほうに戻した。

「ごめん、言い方が悪かった。そう意味じゃないんだ。僕が言いたいのは、これからもっと楽しいことがあるかもしれない

のに死ぬのを選ぶのかって言うこと。君はたかだか10数年しか生きていない。まだ、なにもかも始まったばかりなんだよ」

 まっすぐに自分を見る眼。どうみてもそれは子供にできるようなものではない。少女は目の前に居るのが幼い子供

だと言うことをすっかり忘れていた。


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