それは、南庭の片隅でひっそりと春を告げていた。

 幾つにも分かれた細い枝に紅色の小花をつけたそれは、一本の老木だった。

 まだ寒い時分のことで、庭にはまだこれといって春めいたものはなかった。そんななかで、それは花開いているのである。

 どこから飛んできたのか一羽のホトトギスが老木の枝に止まっていた。前にそれが美しい声で鳴くのを聞いたから、また鳴かない

かと、じっとその風景を眺めていたのだ。

「なにを熱心に見ているのかと思えば・・・・。乳母が必死に探しておるぞ。病み上がりなのだから、大人しゅう寝ておれ」

 北のかたから池に向かい流れる遣水やりみずの音を聞きつつ、ぼうっとしている所に父がやってきた。わたりに座わったまま、指をすっと老木

にむける。

「父上、あれはなんですか?」

 その子供は、振り向いて少しあどけなさを残した声で尋ねた。咲き誇る老木を観察し始めてから、一刻ほどが過ぎていた。

 父親は意味の通わない話にしかめた顔をしたが、その小さな指の指す方を見て、呟いた。

「ああ、彼は梅だ。ちょうど咲頃のようだな」

「うめ、ですか?」

 父親は頷き、横に座った。

「私の父がこの屋敷を建てる際に、どこからか持って来たそうだ。ああやって庭の端でひそりと咲くゆえ、皆あまり気に留めておらぬ

がな」

「一人で咲くのは寂しいです。他の木も早く咲いてくれれば良いのに・・・」

 南庭、中島、他屋敷の庭に植えてある木を眺める。桜、馬酔木あしび、柳、山吹、藤など春の木も見えるのに、それらは冬の沈黙を守っ

たままであった。あってもまだ固い小さな蕾で、咲くには程遠い。

「彼は毎年一足先に春を迎える。なんとも気の早いやつよ」

 髭を撫で付けながら庭全体を見る父親と違い、子供はただ梅を見続けた。紅色の花はまだ寒風が吹く庭の中、必死に陽の光を

集めてそこに佇んでいた。

「私には、春を呼ぶために咲いてるように見えますけど」

 息子の言に父は口の端を持ち上げた。

「そなたも、もう立派な歌人よの。 さあ、もう寝所に帰る時間だ。あまり皆を困らすでない」

「はい。父上」

 白の直衣のうしを翻し立ち上がった父親に続いて、子供も立ち上がった。寝巻きの上に薄い布団を被った格好の彼が渡殿わたどのからひがし

対屋たいやに入る刹那、カッコウが鳴いた。

 思わず振り向いた彼の眼に、梅の老木が映る。そして瞬間息を呑んだ。

 老木を取り囲むように、先ほどは確かになかった薄い煙がかかっていたのだ。父を呼ぶ前にそれは気まぐれな風に掻き消され

た。そしてその直ぐ後にカッコウが一羽、梅から飛び立っていった。

「・・」

「どうかしたか?」

「いえ・・・」

 振り向いて眉根を寄せる父に、彼は首を振った。一瞬の事で、どう説明すればよいかわからなかったし、何よりもう梅はただの梅

だった。

 熱病で臥せっていた彼が一ヶ月ぶりに見た物は、老木の梅が咲き乱れる庭だった。

 今までにも何度か春を見てきたが、このような見事な梅が庭にあることに気づいていなかった。木はそこにあって、誰の眼にも留

まらぬ存在であった。

 母や乳母の心配そうな顔を横目に、彼は退屈な布団の上に戻った。

 病の魔を払うために呼ばれていた陰陽師も帰ったようで、家の中は静かだった。そのうちに母も遠縁の訪問に席を立ち、乳母も仕

事の為に自分の近くを離れた。

 つとつとと夢現を彷徨い、眠りに落ちる寸前に目蓋の裏に見たのは、見事な梅の木。

 梅の木が寒風に枝を揺らすその前に、煙がかかっている。その煙が不意に形を変え、一人の女の背姿を映し出した。いつか見た

絵物語の、天女の衣を着たその女が振り向く前に、睡魔の所為で梅の花ごとその姿は掻き消えた。



 承和じょうわ十二年(845年)。菅原道真、五歳。二月の春間近の日であった。







 病を完全に癒す前後から、道真は父に習って学問を始めた。

 菅原は学者の家系であった。祖父も父も文章博士もんじょうはかせの任に就くほどの学者であったので、道真が学問を志すのも当然の事と言え

るだろう。

 少し歳の離れた二人の兄達も一緒に勉強をしていたが、道真の才の非凡さは直ぐに皆の知るところとなった。

「これは・・・見事な漢詩ではないか・・・・・。そなた、熱病にうなされる内に夢で故人に学を習っておったのか?」

 五歳の道真の書いた漢詩に父、是善これよしは感嘆した。半紙はんしを取られた道真は筆を握ったまま、父親を睨んだ。

「父上、半紙をお返しください。まだ書きかけです」

「いや、すまなんだ。つい手が勝手に・・・。 しかし、末恐ろしいは子の才か・・・。そなたは元服して一体どんな官に就くだろうか」

 宮中の官の職をまだ習っていない道真は、父の言葉に首をかしげた。返された半紙にさらさらと習字の練習を兼ねて残りの詩を

書き綴ってゆく。

 それを見て、是善これよしは溜息をついた。

「漢詩はなかなかのものだが、習字はまだまだだのう。もう一度孔子を一から写せ。字を良く見て手本にせよと言っておるだろう」

 道真はその言葉を聞、渋い顔を自分の背後に向けた。そこには練習の為に孔子の論語を一字一句違いなく写した半紙が一面に

散乱していた。

 儒教の文句はもう殆ど覚えてしまっていた。

 それでも、言われるままにもう一度論語を写していた道真であったが、しばらくしてふと眼を外庭に向けた。

 そこには春の木が咲き乱れていた。病床から起きて眺めたあの寒い庭とは様相がまるで異なっている。

 藤も紫の花を惜しげもなく垂らし、桜は薄紅の花をひらひらと散らしている。池に作られた中島なかしまでは柳は風に靡いてゆったりと揺れ

ていた。

 そんな中、あの見事な梅はすっかり花を散らし、代わりに緑の葉を生やしていた。春を迎えた老木は、春が来たら役目を終えた

ようだ。

 兄の習字を取り上げた父は、筆を止めて庭を見る道真にその半紙を丸めて投げた。

「まだ余裕があるようだな。杜甫とほ律詩りっしを暗記して、清書しおれ。終わるまで飯は抜きじゃ」

 泣きそうな顔を見せる道真に構わず、父は彼に背を向けた。

 年が過ぎ、齢を重ねるごとに道真は誰もが認める文才となっていった。

 二人の兄が相次いで流行り病で死んだのもあっただろう、代々文の才で天皇を支えてきた菅原家を継ぐものとして父、是善これよしの彼

に対する教育はますます熱心になっていった。

 古今東西、特に唐の漢詩に長け、子どもとは思えぬ見事な詩を書く道真は京の都でも評判になった。

 自分だけでは不足だろうと、是善これよしは自分の門下生で、詩の才子である島田忠臣しまだ ただおみに頼み、道真に教えを受けさせた。

「初めまして、今日からあなたの教師を務める忠臣ただおみと申します」

「初めまして。すみません、お忙しいのに、父が無理を言って」

 この時、道真11歳、忠臣ただおみ28歳である。一回りも年は違うが、二人はすぐに打ち解けた。

「噂はかねがね聞いています。 神童と言われる道真殿に会うとは、光栄です」

「・・・・持ち上げないでください。ただの噂です」

「はは、本当に謙虚な方だ。 では、早速ですが詩を詠んでもらいましょうか。あなたの技量が知りたいので」

 人のよさそうな笑みを向けて、忠臣はそれだけ言うと、道真から借りた書に眼を落とした。つまりは、自分一人でせよと言うことだ

ろう。

 道真は竹の札と筆を持って家の中を行ったり来たりした。

(何を詠めばいいのだろう・・・・)

 切なる恋心か、古き郷愁きょうしゅうか、先人の想いか、それとも。

 道真は庭に眼を移した。そこはまだ春を言うにはがらんとしていた。花は蕾、土は固く冷たく、水は澄んで流れる。池にいる魚達

でさえも活発には動いていない。花に身を寄せて舞う蝶など、羽一枚も姿を見せていない。春は、まだ遠い。

 否。

「・・・・そうだ、梅」

 道真は庭に降り、池の中島なかしまに架けられた小さな橋を歩いて越えた。そうして「彼」の前で立ち止まる。

 道真の脳裏に、6年前の光景が蘇ってきた。わたりに腰掛けて眺めた見事に咲き誇る梅の木が、あの日と変わらぬ姿で春を呼んで

いた。

 梅のいい香りが辺りに漂っている。美しい紅色の小さな花が、我も我もと先を争い花弁を開いている。満開、とは言いがたいかも

しれないが、まだ蕾の花弁もまた愛らしい。

 上を見上げれば、枝の先のほうには茶と白の衣を纏った鳥――スズメが止まっていた。

「すっかり忘れていたな・・・。こんなに美しいのに、何故直ぐに思い出せなかったのだろうか」

 道真は齢を重ねた木肌に触れて見た。寒風の中で咲く梅の幹はごつごつとして、滑らかとはとても言い堅かった。だが、暖かい

何かを感じた。

「お前を詩に詠もうかな。なんだか、古い親友に会ったみたいで嬉しい気分だ」

 道真は梅の木に背を預け、筆を札に近づけ、そこで動きを止めた。

 後ろを振り返る。風が吹いていても枝はそうは靡かない。堂々と、小さな花を支える役目をこなしている。

 梅の香りを鼻一杯に吸い込んだ。

「言っておくけど、他に花がないからという理由じゃないぞ。この美しさをもう忘れないようにと詠むのだから」

 道真は顔を元の位置に戻して今度こそ札に筆をつけた。流暢りゅうちょうな字が札の上に躍る。そうして書き終るまでには、数える程しか時

は過ぎていなかった。

 梅の上に止まっていた枝を移動する微かな音を聞きながら、道真は今度は背中を離して梅と向き合った。

 熱病にうなされ死線を彷徨っていた自分が、どうしてあの渡りでこの梅を見ていたのだろう。あの時、起き上がる程にはまだ

心力しんりょくは回復していなかった筈だ。

 思い起こして見れば、あの時、誰かに呼ばれた気がする。それで夢遊病者のように渡りまで歩いてきたのだ。

「お前が呼んだのかな」

 その頃、この梅はもうすぐ切られる運命にあった。父が、桜の木を買ってきたのだが、埋める場所にきゅうしていたのだ。父は、あまり

梅が好きではない。それで梅を取り払い、その場に新しく来た桜を植えようと計画されていたのだが、この梅に心を奪われた道真

が駄々をこねて、仕舞いにはまた熱がぶり返してきたので、父はしぶしぶ庭に梅を残す事を承諾した。

 梅が切られずに済んだ当時はとても嬉しく、一日中梅を見ていることも珍しくなかったのに、年を重ねるにつれ梅との見合いは少

なくなった。ある時期を堺に、梅との思い出はぷつりと途絶えている。今まで思い出さなかったのがいい証拠だ。

 道真は、今書いた竹の札を目の高さまで持ち上げて、澄んだ声でその詩を詠んだ。







 声が風に途切れるまでそのまま目を瞑り、サワと梅の枝がゆれた音に目を開けた。

「どうだ?」

 返事が来ないのは承知の上で、道真は梅に問いかけた。すると、その言の葉の返事の様に、微弱な風の中にも関わらず、梅の

枝が一際大きく震えた。

 道真は目を見開いてしばしその場に釘付けになった。そして梅の震えが収まったところで目を2、3度しばたたせた。言葉もなくそ

の場に立っていたが、しばらくして背後から聞こえてきた忠臣ただおみの声に、我に返る。

 自分を呼んでいる。早く行かなければならないのに、足が動かない。ようやく棒のような足を動かして、寒気で鳥肌が立つ背を梅

に向けた。

 そして、そのまま振り向かずに渡殿わたどのまで駆け足で戻った。