
暗い林道を一匹、狼が歩いていた。後足を引き摺っていて、歩いた後には点々と血が地面を染めている。
灰色とも銀色ともとれる毛並みが明るく輝いているが、それを血が妨げるようにこびりついている。
まだ足の中には銃弾が残っているはずだ。
罠にかかり、そこを狙われたのだが、足を引きちぎるつもりで引っ張りかろうじて罠から外したので、銃弾も
身体ではなく、かろうじて足で済んだ。この大怪我を、済んだ、と言えるならの話だが……。
耐えがたい痛みに、くぉん、と狼は鳴いた――否、泣いた。どこまでも自分勝手な人間たちに家族を始め、数多
の仲間も殺された。生き残った仲間も、またいつ襲われるかわからないのに手負いを連れてはいられない。
(寂しい……)
一匹狼を志し、孤高を目指した仲間もいたにはいた。しかし、そういう狼もきっとこういうシチュエーションに陥れ
ば、寂しくなるに違いない。
狼はさらに歩いた。
目的地は仲間を殺した憎い人間のいる、近くの村。どんな姿かは見ていないのでわからないが、おそらくその
村のどこかに住んでいるのだろう。
どうやって敵討ちをするか――そんな事は簡単である。
『皆殺し』
狼の口がかすかに動いた。そう言おうとしたのだが、声帯の違いで、くぉん、という鳴き声が漏れるだけ。
そして、しばらく歩いていると、ようやく見えてきた。村外れにある家からは灯りが漏れていて、その明るさが
腹の中で煮えたぎっていたものを沸騰させた。
歯を剥き出しにして体勢を低くすると、思い切り地面を蹴った――が、後足を痛めているのを忘れていて、その
まま前方に倒れ込むように転倒した。右の後足がジンジンと痛む。
抗う事も許されず、狼の意識は闇の中に引き摺り込まれた。
外で物音がした気がして、少女は表に出た。村の中心部から最も離れた場所に家があるせいで、村の背後
に位置している林に最も近く、至極たまにではあるが凶暴な動物がやって来たりもする。
「ど、どうしよう……。今日は私一人なのに」
両親はともに、村の集会に出かけていった。おそらく終了後には宴会場に早変わりするだろうから、早くても明
日の午前中にしか帰ってこない。
少女は心細いのを我慢して、林に続く林道に目を向けた。そこは暗く、月が出ていなければ暗順応した後の目
でも、足元を見る事が出来ない。
しかし、幸いにも今夜は月が出ていた。さっき両親を家から送り出したときには雲に隠れていたのだが、今は
かろうじて雲の隙間に見えている。しかし、それもそう長くは続きそうにない。
早足になって、少女は林道を歩き出した。凶暴な動物が出れば抗う術がない事はわかっているのだが、どうせ
そのまま家にいても村で初めに襲われるのは少女なのだ。幼い頭でも、それくらいはわかった。
そして、さらに歩くと――
「あ、あれは……!」
人が倒れているのが見えた。気絶しているようだが、裸で息が荒く、右足は血まみれで先がなくなっていた。
誰が見てもわかる程の大怪我だった。歩いてきた跡なのだろうか、林道には点々と血の跡が残っていて、月明
かりに照らされたそれらは不気味としか形容のしようがない。
「と、とにかく、この人を家に連れて帰らなきゃ」
そう独りで呟くと、少女はかがみ、男の手を自分の肩に回して、背負った――がしかし、それは少女の気持ち
の上だけで、実際は身長の差から引き摺っていた。
それをわかっている少女ではあるが、身長の差などどうする事も出来ないので、一応怪我の酷い右足だけは地
面に擦れないように注意を払いながら、そのまま家まで運んだ。
まるでアルプスの少女を連想させる藁で出来た柔らかなベッドの上にその男を載せると、慌てて救急箱を探し
て家中を駆け回った。
あまりその手のものの需要が少なかったので、少女はどこにあるかがわからなかったのだ。
心を落ち着かせつつ、可能な限り急いで少女は救急箱を探した。
男はベッドの中で目覚めた。まさか少し気絶しただけで足の怪我が治るはずもなく、相も変わらずジンジンと
痛い。しかし、それが再び気絶する事を妨げた。
「ううっ……」
呻くと、男はベッドの上に起き上がった。記憶があやふやだが、確か復讐のために村に向かっていたはずだ。
それが、どうしてベッドで寝ている事につながるのだろうか。
(それに……)
人間の姿をしている。
「また、やっちまったのか……」
どういう体質かは男自身よくわかっていないのだが、なぜか月の光を浴びると狼から人になってしまうのだ。そ
れに今までも何度となく困らされてきた。
狼たちの群れの中にいるときに人間になったりしたときには、本当に大変だった。群れのほとんど全ての狼に
襲われ、かろうじて逃げると、ほとぼりが冷めるまで――狼に戻れるまで――一晩中、森の中を逃げ回ったりも
した。
男はベッドの上から、窓の外を見た。
今夜は、天気があまりよくない。
見た所、自分は民家の人間によって気絶している所でも見つけられ、看護されているのだろう。
だとすると、あまり状況はよくない。今夜のような曇天の天気では、いつまた月が雲に隠れてしまうともしれな
いからだ。もし人間から狼に変身する所を見られでもしたら、その場で撃ち殺されるか、山の狼を一掃しにかかる
かもしれない。
ふと、男は窓の外を見やっていた視線を、部屋の扉の方に向けた。そこには、幼い少女がこちらを見て立って
いた。手に救急箱を持っているという事は、自分を助けてくれた本人という事だろうか?
少女は男に近寄ると、「怪我を見せてください」と言った。あまり人に見せて気持ちのいいものでもなかったが、
手当てしてもらえるのなら、それに越した事はない。
素直に身の上にかかっていた薄く、白い布をのけると、かなりひどい有様だった。引きちぎられたように、右足
の先がなくなっている。
そして、シーツはもちろん、その下に敷いてある藁は物凄い量の血で深紅に染まっている――大げさなどでは
なく、本当に染まっているのだ。少女は驚いて、数歩後退った。恐怖に顔を歪めて、男の傷口を凝視していたが
ふと我に返って、いそいそと包帯を取り出す。
男ですら、その傷には目を背けた。
(もし、月が出てなかったら……)
今は人間だから激痛はするものの、特にどうという事はないが、狼のままだったら、と考えると背筋がゾッとし
た。狼にとってあの血の量は間違いなく致死量であるし、傷の大きさだって体長から考えれば相当なものだ。
しかし、人間なら太腿のあたりに埋まっているはずの銃弾さえ除去すれば、足はもう二度と元に戻る事はない
が、死にはなしないだろう。
「この怪我、どうしたんですか? 林に倒れてるのを見つけたときは、びっくりしましたよ」
「ちょっと罠にかかって……」
「罠?」
「あ、いや、なんでもない」
うっかり口を滑らせてしまった男は、狼狽しつつ言い直した。しかし、そのとき再び窓の外が目に入ってしまい、
もうタイムリミットが迫っている事を知らされた。雲は残酷にも月を隠そうと、まるで襲いかかるように凄いスピード
で迫る。
男は少女の手で制すると、ベッドから起き上がろうとした。
「何してるんですか! 今動いたら、死んじゃいますよ」
その言葉に、男はハッとした。
確かに自分は仲間を大量に虐殺され、この身に大怪我まで負った。しかし、それが――それだけが人間の全
てではない。両面刷りのものを片面から見ているだけであって……この少女のような、優しい人間もいるのだ。
「君は、こんな話があるとしたら、信じるかい?」
ちょっとした悪戯心だったのかもしれない。ふと、少女に自分の身の上を話してみたくなったのだ。
「ある不思議な狼がいてね、そいつは人間に多くの仲間を殺され、自分もその人間のせいで大怪我を追った・・・
そう、右足が半分なくなるくらいの大怪我だ。
その狼は人間に対する憎悪の念を燃やしてね、その人間が住んでいるであろう近くの村にやってきたんだ。
もしその村に怪我を負わせた人間がいるとしたら、村中の人間を皆殺しにすればその憎い人間は殺せるんだか
ら。
でもね、その狼は途中で力尽きてしまったんだ。もう限界だったんだな、致死量を超える流血をして、足もないし。
ただ、その狼は普通ではなかった。月の光を浴びると、人間になれるんだ。狼にとっての致死量っていうのは、
必ずしも人間の致死量とは限らない。そして、その狼はある少女に救われたんだ」
別に何かを隠して話そうとは思っていなかった。身に起こった事をありのままに話して、結果どうなろうと、それ
はもうどうでもよかった。ただ、少女がどう思うのかが知りたかった。
男は少女を見た。
俯いていて、表情は伺えない。何事かを考えているようで、押し黙っている。
と、いきなりその少女が男の顔を見た。そして、ニッコリと笑いかけた――目からは涙を流しながら。
次いで、窓から空模様を見る。
「じゃあ、もうすぐ狼に戻っちゃうんですか?」
うん、と頷く男。
「そしたら、死んじゃうんですか?」
たぶん、と頷く男。
「それでも、戻らなくちゃならないんですか?」
うん、と頷く男。
「でもね、僕は幸せだよ。忌み嫌っていた人間にも、君みたいな子がいるとわかったからね」
「でも、人間がいなかったら死ななくてもいいんでしょ?」
困惑した顔で、男は曖昧に頷いた。少女は男のふところに顔を埋めた。顔を押しつけるようにして、嗚咽を漏ら
す。
男は心が痛んだ。もしかしたら、話さない方がよかったのかもしれない。でも、後悔はしていなかった。
少女が本当に自分を心配してくれる事がわかっただけでも――少女のような人間がいるとわかっただけでも、
皆殺しなんてしなくてよかったと思えるから。
幸せだった。
まさか、人間とこんなふうに心を通わせる事が出来るなんて、思ってなかったから。
「そろそろ時間みたいだ」
男は少女の肩を持って、顔を上げさせた。その手は徐々に小さくなり、毛が生えている。身体も一回りくらい小
さくなった。たったそれだけなのに、怪我がうずく。このまま狼に戻れば確実に死ぬであろう事を、予兆していた。
「いや、行かないで。死んじゃやだ」
少女は男の肉球のある手を振り払うと、またふところに顔を押しつけて、泣き始めた。男は見る間に小さくなっ
ていく。そして、それと同時に頭がくらくらして、血が足りない事を身体に訴えていた。
「嫌、いや。こんなの絶対にいや―――――!」
叫び声とともに、少女の身体がまばゆい光を放った。
「人間のせいで狼さんが死んじゃうなんて、絶対に嫌! そんなのおかしいよ! 絶対に間違ってる! 皆殺し
が正しいなんて言わないけど、このまま狼さんが死んじゃうのは許せない!」
少女は溜まっていたものを全て吐き出すように、叫んだ。それと同時に少女は以前にも増して明るく輝き始める。
朦朧とする頭で、なんとか少女の叫びの意味をわかろうとした。しかし、意識は闇に引き摺りこまれ、段々と遠のいていく。
男には最後に少女が光の中で、微笑んだ気がした。
目覚めると、男はベッドの中にいた。怪我をしている方の足がジンジンと痛み、頭は貧血を訴えてかけいる。
しかし、男は確かに生きていた。狼に戻れば必ず死ぬはずであったのに、なぜか男は人間のまま生きていた。
周りを見渡しても、少女の姿はなかった。
「な、何が起こったんだ……?」
今、確かに自分は人間である。しかし、もう月はしばらく姿を現さない程の厚い雲に覆われたはずだ。
男は窓から空を見た。
――そこには月があった。
そして、次の瞬間、
「な、なに!?」
驚愕の声を上げた。
風に吹かれて動いた雲の隙間から、もう一つの月が姿を現したのだ。
一つの空に、二つの月。
それはどう考えても不思議な光景だった。
しかも、片方の月は明らかに雲に隠れていなければならない位置にあるはずなのに、まるで自分の周りの雲
だけを破壊しているかのようだった。そこまでして、雲に隠れたくないのだろうか……?
「ま、まさか……」
男は自分の考えた恐ろしい仮説に、ハッとした。二つの月をじっと見てみると――
「あ、あの子だ……」
月の影が顔のように見えた。そして、その顔は笑っていた。
どこまでも明るく、どこまでも無垢に、笑っていた。
「お、俺のために……」
痛む足を堪えて、男はベッドの上に立ち上がった。笑う月をじっと見ていたが、やがて顔をそらして、村に点在
する民家を見回した。
そして、遠吠えをした。
悲しい鳴き声がその夜、いつまでも響き続けた。悲しい声で鳴く狼に、いつまでも月は笑いかけていた。
是枝さんのサイトで2500番を踏んで小説を頂きました!(パチパチパチ)
狼ネタっすよ、狼! 私の中では、人間に化けてカッコイイ動物一位が狼ですからね!(興奮)
(ちなみに、二位が狐で三位が猫)
本当に、人間の所為で動物が消えていくのっておかしいですよね。
ニホンオオカミも、どこかで生き残っていてくれないかなあ・・。
でも種の保存って最低二百匹必要なので、一匹や二匹生きていてもしょうがないらしい。
青年と少女というナイスシュチュエーションにも心からの拍手を贈りたいと思います。
童話テイストで、狼うんぬんが無くてもこういう話は結構好きっす。
素敵な小説、どうもありがとうございました!!
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